東日本大震災
昨日で東日本大震災から10年が経ちました。
当日は、震源から遠い所にいたので被害はなかったのですが、職場のテレビに釘付けになって津波の異様な光景を呆然と見ていました。
程なく、福島原発の危機的な状況について報じられるようになり、いよいよこの世の終わりではないかと、胸騒ぎが止まらなかったのを覚えています。
農林水産省のホームページによると
全国の死者は 14,517人
行方不明者は 11,432人
負傷者は 5,314人
建物被害は 76,800戸
という被害状況が示されています。
平成7年の阪神・淡路大震災では、気象庁のホームページによると
死者 6,434人
行方不明者 3人
負傷者 43,792人
建物被害 256,312棟
と示されています。
人的被害、建物被害ともに数としては阪神・淡路大震災が多くなっていますが、死者・行方不明者の数は東日本大震災の方がかなり多いことが分かります。
阪神・淡路以降は地震に対する対策は進んでいたのだと思いますが、津波に対する対策ができていなかったということが現れている数字だと思います。
過去の経験や先人の教訓が、いかに危機管理の上で重要かということを痛感したこの10年間でした。
「想定外」という言葉が流行ったように、人間の想像力にはどうしても限界があります。
それを埋めるのが、過去の経験や先人の教訓だと思っています。
しかし、自分が経験したことは誰もが信じるのですが、他人の言うことは、意外に信じにくいものです。
その点において、映像は説得力のあるツールです。
今もYouTubeで当時の映像が誰でも見ることができます。
自然の前に人は無力だということを、あらためて認識し、謙虚になってこれからの危機管理を考えていきたいものです。
自分にも、この映像を見るたびに、そう言い聞かせています。
スマホ画面の整理
仕事の効率化、日々の生活の効率化をしたいと、最近ずっと思ってますが、なかなか思うようにいっていない気がしています。
「気がする」ということは、実は効率化できているかもしれないのですが、客観的に評価できるものがありません。
評価の方法は、日々の時間の使い方を計測すること、効率化の結果として成績が上がったり、目標ややりたいことが達成できているか確認すること、などがあると思います。
評価のためには、効率化のためにやったことと、その結果をしっかり記録しておく必要があります。
これからは、このブログに効率化の様子を記録して、振り返りをしていきたいと思います。
手っ取り早い効率化の仕方は、一番時間を取られているものの効率化を進めることです。
そう、スマホです。
最近、スマホを最新のiPhone12miniに変えたことで、操作が快適になり少しは効率化できた可能性があります。
ですが、なんか煩わしい感覚が残っていたので、これはスマホの画面が使いやすいように整理できていないからではないか、と仮説を立てました。
まずは、自分がスマホで何を一番操作しているか、調べました。
iPhoneだと、「設定」の「スクリーンタイム」から確認できます。
使用時間でいうと、ブラウザとYouTubeが圧倒的に長いのが分かります。
あとはニュースやブログ、メールをよく使っています。
ただし、これは先週一週間の結果であって、週によって違いはありますが、ブラウザとYouTubeを使う時間が長いのは同じです。
スマホを持ち上げた回数でも調べることができます。
これもやはりブラウザとYouTubeが多いのですが、LINEも多くなっています。
効率化とは違う観点ですが、まずはYouTubeやブラウザを見る時間を減らす必要がありそうです。この点は、別の機会に考えたいと思います。
メールやLINEなどのメッセンジャーアプリをよく使っていることは分かりました。
そうであれば、それ以外のアプリは本当に必要なのか、必要だとしても、目につく場所になくてもよいのではないか、と考えました。
こちらが今までのホーム画面です。
使い勝手は悪くないのですが、よく使うアプリにすぐにアクセスできなかったり、使わないアプリがあるせいで、見つけにくかったりしていました。
そこでホーム画面を整理した結果が、この画面です。
かなりスッキリしたのではないでしょうか。
他のアプリは削除したのではなく、ホーム画面から消しただけなので、使おうと思えばAppライブラリから検索して見つけられます。
あとは使い勝手がよくなるように日々改善していくことで、さらに効率化を図りたいと思います。
東京五輪聖火リレー
結果的には、賛同する声が多数あがり、その後の竹下議員の問題発言が更なる後押しにつながったようです。
中央政権に楯突くことは一見リスキーな行動のように思えますが、今のところ世論の追い風を受けて、スタートは成功したように思います。
問題は、何を目標や目的として、どのようにこの勢いを生かすか、だと思います。
仮に聖火リレーを中止させることが目的だったとしたら、世論をさらに盛り上げていくことが重要になります。
一時的な話題に終わってしまえば、予定どおり聖火リレーは行われ、島根県が協力するか、しないか、というワイドショー的な終結になることでしょう。
今回は、おそらくそれが目的ではなく、政府に対して揺さぶりをかけ、コロナ対策の抜本的な見直しや地方への支援を引き出すことが、最終的な目標のような気がします。
島根県が参加しないだけなら、政府は大したダメージはないでしょう。
政府や政治家が一番怖いのは、抑えられないほどの世論の高まりと、政党への支持の低下でしょう。
ひいては、五輪の失敗と、政治不信を招き、ある意味コロナよりも怖い危機が訪れます。
地方の一知事の声は、負け犬の遠吠えではなく、コロナに苦しむ国民への一斉大号令になる可能性を秘めています。
次の一手が大変重要であり、注目したいと思います。
続・雪道とアイスバーン
あれだけブログで言っていたのに、通勤中に凍結した路面でマウンテンバイクに乗っていたら、コケてしまいました。
仕事着のズボンの膝が擦れてしまって、自分の膝も少し擦りむける程度の被害で済みました。
今後のために、反省点を考えてみたいと思います。
前提として、前にブログで書いたとおり、路面が凍結している状態で自転車に乗る時は、自転車の特性や乗り方を理解している必要があります。
それは大丈夫だったのですが、その上で大事なことを忘れていました。
常に注意を怠らないことです。
今回の状況は、
1.気温は低かったが、晴れていたため、ほとんどの路面が乾いていた。
2.仕事場まで順調に自転車をこいでいた。
3.仕事場が見えている状態で、あともう少しで到着するところでコケた。
4.コケたのは、橋のたもとの水溜りの上だった。
当然、気温が低かったため路面が凍結していることは想像できたのですが、上記の1と2の状況から、「大丈夫だ」という油断があったと思います。
また、仕事場にもうじき到着するという安心感と「早く行きたい」という気持ちがさらなる油断を生んだと思います。
そして、凍結した水溜りがあることを見逃してしまい、橋の上は凍結しやすいという基本的な注意点も頭から抜け落ちてしまっていました。
これを踏まえた反省点は、以下のとおりです。
・気温低い日の自転車は、常に路面の状態を確認しながらゆっくり乗ること。
・同じく、橋の上は降りるか、乾いた路面を通ること。
・安心感を持った時、ゴールが近い時こそ気をつけること。
正直、コケた時はいいブログネタができたとも思いましたが、一つ間違えば大怪我にもなることです。
こういったヒヤリハットの事例を一つ一つ改善していくことが、大きな事故を防ぐことにもなります。
このブログでは、今回のようなケースを検証し、生活していく上での教訓や知恵なども蓄積していくことで、自分やブログを見る方の危機管理能力向上につながるようにしていきたいと思います。
緊急事態宣言
今話題の緊急事態宣言。「非常事態宣言」と言ったりすることもありますが、調べてみると、どちらの言葉も同じ意味のようです。
緊急事態宣言の語源となったエマージェンシー(emergency)を「緊急事態」と訳したり、「非常事態」と訳したりしていたら、2つの言葉が別々に使われるようになった、というのが真相のようです。
東京都ホームページより引用
このことから分かるように、日本における緊急事態宣言の歴史はあまり古くないようです。
平成15年の衆議院憲法調査会の資料を読んだのですが、主要国で最も歴史が古いのはフランスのようで、18世紀末にはすでに緊急事態法制が整備されていたとのことです。
そもそも緊急事態宣言は、憲法制度上の国家緊急権、つまり、憲法やルールを守るのは当然だけども、非常事態の際にそれらに縛られることで、逆に国家が危機に陥ってしまってはならないので、非常事態の際には国家が憲法などの機能を一時停止して、非常措置をとることができる権限によるものです。
では、その国家緊急権が日本国憲法に定められているかというと、条文としては見当たりません。
英米ではマーシャル・ルールというものがあり、憲法に明文化されていなくても、非常事態に国家が非常措置をとるのは当然の権限であるという考え方のようですが、日本もこの考え方に当てはめているのかどうかは、よくわかりません。
個人的には、日本国憲法にしっかり定めておくべきではないか、と思っています。
ちなみに、戦前は大日本帝国憲法に戒厳令などの権限が定められています。
戒厳令とは、戦争や内乱の際に様々な権限を軍当局に移管するもので、要するに軍隊でないと解決できない事態には全権を軍隊に任せるというものです。
当然ですが、戦争と軍隊を放棄した日本国憲法に戒厳令の規定はありません。
同じ境遇で、ドイツも戦前は憲法に国家緊急権が定められていましたが、ナチスの独裁的濫用の反省を踏まえて、戦後いったんは法律から削除され、その後に議会が関与する形の緊急事態条項が定められています。
難しい話になりましたが、いずれにしても、緊急事態宣言を発出する権限が与えられている以上、トップの危機管理能力と決断力に我々国民は注視し、自分自身もその意味や効果をしっかり考えて行動する必要があると思います。
危機管理とリスク管理
危機管理と似た言葉に「リスク管理」というのがあります。
「危機管理」は、近年様々な場面で使われるようになった言葉ですが、「リスク管理」は、まだ特定の分野でしか使われていないような気がします。
具体的には、金融業界であったり、IT業界であったり、行政であったり、というところでしょうか。
「危機」は英語でいうと「クライシス(crisis)」、「危険」は英語でいうと「デンジャー(danger)」、では「リスク(risk)」はというと、これにあたる適当な日本語がないので、英語のまま「リスク」と言っている訳です。
リスクとは、危険や危害(英語でいうと「ハザード(hazard)」)の大きさとそれが起こる確率を掛け合わせたものです。
例えば、歩行者と車の衝突事故でいうと、歩行者にとっての危険や危害は車自体であり、歩行者にとってのリスクは、車のスピードや大きさ、ガードレールがあるかどうか、車の運転手が居眠り運転をしていないか、信号無視をしないかなど、様々な要因を踏まえてどのくらいの確率で、どの程度の被害を受けるか、ということになります。
つまり、車自体は危険をもたらすものであるけど、誰も運転していない止まっている車は、歩行者にとってのリスクはほぼゼロと言えます。
危機管理は、危機をいかに防ぎ、いかに乗り越えるか、ということを考えるものですが、リスク管理は、リスクの大きさ(被害の程度やそれが起こる確率)をどのようにして、また、どの程度まで下がることができるか、ということを考えるもののように感じます。
また、「リスクヘッジ」という言葉が金融業界で使われることがありますが、どちらかというと「リスク管理」に近い意味で使われている気がします。
微妙なニュアンスの違いであり、自分自身もスッキリしない部分もありますが、これから少しずつ解明していきたいと思います。
新型コロナウイルスの危機管理
新型コロナウイルスが騒がれ始めて1年が経ちました。
日本では、いまだに感染者の全数把握が行われ、ワクチン接種も始まっていません。
つまり、1年間ずっと状況が変わらず、同じことを続けているわけです。
2009年の新型インフルエンザを振り返ると、4月にメキシコで初めて発生が確認されて以降、5月初めに日本国内で初感染が確認され、7月には国内での全数把握の廃止とワクチン生産の議論が行われています。
秋から第二波が始まり、全数把握を行っていないため確定的な数字は分かりませんが、11月のある1週間には全国で164万人が新型インフルエンザに感染したと推計されています。ワクチン接種もこの頃から始まっています。
またWHOは、世界の主要国の中で、日本が最も死亡率と入院率が低いと発表しています。
2010年3月末には新型インフルエンザの対策が一旦終了し、名称も「インフルエンザ(H1N1)2009」となって季節性インフルエンザと同じ扱いになりました。
また同じ年の8月には、WHOがパンデミックの終息を宣言しています。
なぜ新型コロナが収束しないのかについては、また別の機会に考えるとして、新型インフルエンザと比べてなぜコロナの対策は進み方が遅いのかを少し考えてみます。
一つは、日本の対策が、世界の流れに引っ張られてしまっている、ということです。言い換えれば、日本は世界に合わせて対策を進めている、ということです。
その例が、ワクチンです。
新型インフルエンザは、国内でワクチン生産体制を構築できましたが、新型コロナについては、現時点で海外メーカーのワクチンに頼らないといけない状況です。
したがって、コロナの場合は国内の事情だけで対策を進めることができません。
もう一つは、WHOの動きです。
新型インフルエンザの時は、世界で初めて発生が確認されてから、WHOは早々に病原性が低い可能性を示唆しており、日本もそのことを踏まえて弾力的に対策を進めることができました。
今回の新型コロナについては、いまだにはっきりした方向性がWHOから示されておらず、ただ警戒するよう言うばかりで、日本は、圧倒的に感染者の多い欧米と同じような警戒レベルを強いられています。
日本も、世界とは一線を画した独自の対策を取っても良いのですが、政治的決断や国民感情のコントロールができず、ワクチン頼みの対策をダラダラ続けているのです。
新型コロナに関して日本が行うべき危機管理と言えば、医療崩壊を防ぐことだと思います。
新型インフルエンザの時には、現在の新型コロナに比べてもっとたくさんの患者が発生していましたが、医療崩壊と言われるような状態にはなりませんでした。
ここに危機管理のヒントがあると考えているのですが、長くなったので、今日はこのあたりで終わりたいと思います。